「書評」「意識高い系」の研究 古谷経衡
最近、同世代や周りの人と比べて、明らかに、読書量が増えてきています。読書は主に研究所や新書で教養を身につけることが多いです。気をつけなければならないのは、自分が、他の人よりも時間を有効に使っているという優越感と知識が増えることで生まれる勝利感(何に勝ったわけでもないのに)。そうこんなこと思っちゃってるのが、私です。だって大学生の50%は読書時間0分ですよ。そりゃ、「俺みんなと違うことやってるよ。すげーっしょ。」ってなります。そんな私を世間は意識高い系と言ってひとくくり。なぜなら結果を出していないただの学生だから。ということで、同類を見つけようってことでちょうど書店に並んでいた本を購入。
この本は新書で、しかも、研究っていう言葉がタイトルにあるので、いやーさぞかしグラフや数字(統計)でいっぱいなんでしょう。と思い、読んでいくと。
著者の持論が展開されているから到底客観的とは思えない。
著者は、知識も経験もないのに起業をしようとか、カタカナを使った洒落た言葉を口にする人が身近にいてその人たち「意識高い系」を観察することに決めたのだという。p.13-15
まず、一番の疑問点は意識高い系の定義だ。
土地に土着していない。
その土地を両親などから相続していない。
「スクールカースト」においては、第一階級に所属せず、もっぱら第二階級に所属していた。
よって承認経験が乏しいために、必要以上に他者へのアピールを欲する
自己評価が不当に高い
(p27より引用)
これからはリア中の定義と比較されて提示されているのだが、ツッコミどころがある。
なぜ土地に土着をすると意識高い系にならないのかの説明が本書の中では残念ながら説明されていない。おそらく金銭的な余裕を意味していると思うが、その場合は金銭面と意識高い系の相関関係を見るべきである。
なぜ筆者がそこまで土地にこだわるのかわからないが、おそらく筆者自身の経歴が影響しているのではないだろうか。研究をしているとよくあるのだが、仮説を立てる際に、自分の経験から容易に導き出してしまうことがある。筆者の生まれは札幌で、千葉県に住んでいることからからも意識高い系と重なる部分があると推測したのかもしれない。しかし、それは大いに間違っている可能性があることを忘れてはいけないんです。
次に、スクールカーストにまで著者は論を広げています。しかし、スクールカーストと承認欲求は果たして関係があるのでしょうか。研究の場合、そこからデータを集めなければなりません。なぜ、第二階級に所属していた人たちは承認欲求を欲しいと考えることができるのでしょうか。もしかしたら、スクールカーストのせいで承認欲求は減り、あきらめやすい性格に変化することも考えられるのではないでしょうか。
ツッコミどころがたくさんある本書の中でも納得(あくまで経験論)できるとこともあります。それは、自分がある程度力や地位を手にするとそこまでみんなに知らせたいという欲は薄れるというものです。例えば、本当の富豪たちは自分がお金を持っていることを自慢したりするのでしょうか。中上級の年収をもらっている人ほどやけに他の人の年収や月給を探ったりしてませんか。学歴で言えば、東京大学の人が相手の大学を進んで聞いて、その後で東大ブランドをぶつけたりしようとするか疑問です。わたしのイメージではかなり謙遜して「一応東大です、、、」みたいな気まずささえ感じ取れそうです。
ですので、意識高い系の人は、一流ではなく、二流や三流の人々(私です)その人たちがFacebookやインスタでパーティーやセミナーの参加をしたことを満面の笑みの写真で飾ったりする。それをみた人は少し引くか、促されて自分も同じ行動へ走る。そんなことが起きていることは考えられそう。
自分を持って、目標へ向かって頑張る。変に比べる必要はない。みんな個性を大切に。